
【制作ストーリー】
会社名:代表世話人株式会社
事業内容:世話人業
創業者:杉浦 佳浩(すぎうら よしひろ)
ストーリータイプ:創業者インタビュー
紹介だけで、年間1000人を超える経営者に会い続けるビジネスマンがいる。
代表世話人株式会社 代表取締役の杉浦 佳浩(すぎうら よしひろ)。
スキンヘッドにメガネ姿が、彼のトレードマークだ
杉浦の周りには、新規市場開拓、営業支援、資金調達、広報、マーケティング、人材採用、社員教育等、ありとあらゆる領域のプロフェッショナルや企業がいる。
彼らは、杉浦がこれまで丁寧に信頼関係を築いてきた、言うなれば「杉浦応援団」だ。
そして、杉浦は「是非会ってほしい人がいる」「あの人を助けてやってほしい」といって紹介された相手に対して、杉浦応援団の中から最適な人や企業を繋げる。
その結果、数多くの経営者や企業が、彼に救われ、窮地を脱し、事業を成長させてきた。
彼らはみな、このように口を揃える。
「すべては杉浦さんのおかげ」「杉浦さんには感謝してもしきれない」と。
杉浦と旧知の中である関西の経営者との1枚
彼についてよく知るために、代表世話人株式会社のホームページを覗いてみた。
見る限り、彼は一人会社のようだ。
設立日 2014年9月某日(事業開始日:思いが結実した2015年1月1日)
住所 大阪周辺、ときどき東京をふらふら、どんどん全国へ!
…
そして、気になる事業内容の欄には、
「世話人業」
と、だけ。
代表世話人のホームページの会社概要欄
ホームページを見たものの、余計に謎が深まってしまった我々は、彼の魅力を解き明かすべく、直接のインタビューを実施した。
そして、インタビューが終わる頃には、すっかり彼の大ファンになっていた。
まずは、気になる仕事の内容について、本人の口から語ってもらおう。
杉浦「杉浦さんのお仕事はなんですか?と聞かれると、『その道のプロをたくさん知っているプロフェッショナル』かな、と…。僕が直接、その会社を支援するというよりも、課題を相談に来られた方に、僕の周りのプロフェッショナルを紹介して繋ぐ。
僕に相談に来られた方の課題が解決され、その結果、僕が紹介したプロフェッショナルにとっても有益な情報交換ができる。お互いがWIN-WINになる紹介を心がけています」
杉浦が独立する前から仲良しの経営者との1枚。
杉浦「とはいえ、僕はあくまでも『繋ぐ』だけ。その後、どういう展開にしていかれるかは、当事者の皆さんが決めること。でも皆さん、行動力や熱意がある方々なので、どんどん動いて形にされて、その後『杉浦さんのおかげです!』と連絡をいただくんです。とんでもないことです、僕は何もしていません。
僕は、『繋いだだけ』ですから」
話を聞いていると、それはまるで、一昔前のお見合いの仲人のようだ。
一組の男女を引き合わせ、実際に顔合わせをした後は、「あとは若いお二人で…」と言ってその場を立ち去る。
そういった、「世話好きの、知り合いのおじちゃん」というイメージなのだろうか。
杉浦「そうかもしれません(笑)僕は元来の世話好き。独立する前の会社員時代に、お客さんから『世話人』という肩書を頂いたんです。『杉浦さんって顧問でもないし、相談役でもないし…世話人という呼び方がしっくりくるね』と。
ですから、独立後の社名も、代表世話人にしました。
そういえば、以前紹介した方々が、実際に結婚された、なんていうこともありましたね。期せずして、仲人のような立場になっていたこともあります(笑)」
ビジネスの場面を通り越して、恋のキューピットにまでなっていたとは、杉浦氏、恐るべし…。
この男、だてにはげてない
彼は、人を喜ばせるのが大好きだ。
「この人を紹介すれば、きっと笑顔になってもらえるだろう」
「この人達が繋がれば、本人たちも想像だにしなかった面白いことが起こるだろう」
未来を想像しながら、まるでサプライズをするかのように、人と人を繋いできた。
この性格は、父親譲りなのだという。
86歳を超える杉浦の父親。年々、パワフルさに磨きがかかっている
杉浦「僕のルーツは、間違いなく、お父ちゃん。父親ですね。父親は、親戚の会社の専務だったので、月曜日から金曜日まで決まった時間に家を出て帰宅する、という生活ではありませんでした。
日常の中に、ごく自然に、仕事が溶け込んでいました」
杉浦の父親は、働き者だった。時には平日だけでなく休日にも、得意先を訪問し、いわゆる御用聞きを行っていた。とはいえ、休日に何も用事が無いのに、お客のところに行くことはできない。
「何か口実が必要だ…」
そこで、幼い杉浦の出番だった。
杉浦「父親は、日曜日になると5歳の僕に『今からお客さんのところに行くぞ!』と言って、僕を連れて得意先を訪問しに出かけました。そして、お客さんの前でこう言うんです。
『いや〜うちの子が、休みの日やからどっか連れて行けってうるさいんですわ〜。だからこうして、連れて来させてもらってますー』と。
僕は、そんなこと一言も言ってないのにね(笑)」
その年頃の男の子は、日曜日であれば「公園に行きたい」「友達と遊びたい」と思う時期。父親の仕事に付き合うことを、嫌がる子どもも多いのではないだろうか。
ただ、杉浦は、父親と営業に行くのが、とても楽しかった。
父親はお客のところに行く前、杉浦に、よくこんな風に話してくれた。
「ええか、お客さんから頭を撫でてもらったら、にこーっと笑うんやで。そしたら、お客さんは嬉しいやろ?あめちゃんをくれたり、『僕かわいいなぁー』と言って笑ってくれはる。そうしたら、おまえも楽しいやろ?」
と。
杉浦「実際に、お客さんのところでにこーっと笑うと、すごく喜んでもらって。『相手が笑顔になるって嬉しいなぁ』と、子どもながらに感じました。
父親がどんな仕事をしているのか、もわかって嬉しかったし、コミュニケーションの大切さも学ぶことができた。
これ以上ないOJTでしたね。
大人になって、父親に『あのときのこと、感謝してるで』と伝えたところ、『え?そんなことあったか?』と忘れていましたが(笑)」
毎年年末になると、父親は率先して、杉浦の会社のカレンダー発送を手伝ってくれる
あれから50年経ち、杉浦は今、「人と人を繋げる仕事」をしている。この仕事が成り立つのは、時間をかけ、丁寧に交流を深めて培ってきた信頼関係があるからこそだ。
特に彼が心がけているのは、「杉浦のことを信頼して、大切な友人や家族を自分に紹介してくれた方に失礼がないようにする」ということ。
このことは、父親が5歳の杉浦に、身を持って教えてくれたことだった。
一方、母親から教わったことも、杉浦の今の生き方に大きな影響を与えている。
仲の良いご両親。彼らの笑顔は、周りを元気にしてくれる
杉浦の母親は、おっとりとした穏やかな人だ。兵庫県のとある田舎町で、田んぼや畑、山や緑に囲まれた、自然豊かな場所で生まれ育った。
そして杉浦は小学生の頃、夏休みになると、一人で電車に乗り、母親の実家にいき、叔父の農作業を手伝った。
田んぼの中を走り回り、虫を追いかけ、その土地の人達と触れ合う…大阪の実家とは全く違う土地での体験は、全てが新鮮で、楽しかった。
言うなれば、これは杉浦少年にとっての小旅行だった。
杉浦「この原体験のおかげで、僕は後に旅行好きになったのだと思います。大学時代はリュックサック一つで海外の色々な土地に行きましたし、今でも仕事で、地方に行くのが大好き。どこか懐かしさを感じるんです。それは、幼い頃に見た、田舎の風景と重なるからかもしれません」
彼は、大阪ー東京往復間でのぞむ富士山の姿が、大好きなのだ
電車に乗って、初めての土地を訪れ、初めての人と会う。杉浦にとって仕事は、「旅行」そのもの。
だから、毎日が楽しくて、仕方がないのだ。
飄々としていて、決して一所に留まらない、まるで「水」のよう。柔軟に形をかえて、上から下へと流れ、時には岩をも砕くパワーを持つ。
初めて会う人にも仏のような笑顔。その笑顔は、大人だけではなく、幼い子どもの心をも一瞬で虜にする。ただ瞳の奥には、いつも静かに炎が燃えていて、
「この人の前では何も隠せない、全てお見通しだ」
そう感じさせる、凄みさえある。
一言ではとても形容できない、不思議な人物だ。
そんな杉浦は、やはり新人時代から、良い意味で人と違っていた。
杉浦「大学を卒業して証券会社に入り、配属は営業になりました。資産家や社長といったお客さんから、お金をお預かりして、株を運用させて頂くための契約を取りに行くのが仕事。
でも、そんなお金持ちの皆さんが、新卒で入社した、株のことなどよく知らない若者の話になんて、興味を示すわけがない。だから、営業に行っても、株の話は一切しませんでした」
学生時代から、旅行好きだった杉浦。客先では、バックパッカーでこれまでに訪れた、海外旅行の話をした。
当時は、大手旅行代理店が販売するパック旅行が主流。行き先は、先進国の主要な都市が中心だった。今のように、世界中の珍しい国や地域に行くことは、なかなかできなかった時代。
そのため、杉浦が体験してきた海外旅行の話は、お客たちにとってはとても新鮮だった。
スペインで、銀行に両替に行ったつもりが、窓口を間違えて現金輸送車に近づいてしまい、機関銃を向けられた話。
フランスの黒人街で怖い人達に囲まれて、死を覚悟した話。
中国で、食あたりで倒れ、助けを呼ぶこともできず、病院にもいけず、ホテルで3日3晩、飲まず食わずで寝て過ごした話。
杉浦が旅行で体験した話をすると、お客は身を乗り出して、その話に耳を傾けてきた。
「そんな話は初めて聞いた、君の話はとても面白いね!もっと聞かせてほしい」
そして気づけば、紹介でどんどんお客が増えていった。
か、髪の毛が、ふさふさだ…!
杉浦「『仕事の話をしなくても、お客さんは増えていくんだ』と、その時に気づきました。お客さんが興味のあることを話せばいいのだと。もちろん、商品の勉強をしておくのは大前提。
でも、その知識をそのまま話すのではなく、お客さんが興味があることは何か、そこにフォーカスして話をするようになりました」
その後、精鋭揃いで、驚異の経常利益率、上場企業の高賃金ランキング常連であるキーエンスに転職した杉浦。そこでは、お客様の課題を徹底的に聞いて解決する、コンサルティングセールスの基本を叩き込まれた。
そのキーエンスでも、たくさんのご縁を創り成果を上げ、退職時は全社員から胴上げされ、見送られた。
会社員時代の思い出の一枚
そして、これまで培われた杉浦の営業の型が、次なる転職先の三井住友海上で、さらに花開く。
杉浦「会社の悩み事を聞いているうちに、そういえば、前に、同じような課題を解決した社長に話を聞いたことを思い出し、それを伝えたところ、とても感謝されました。
自分には、その場ですぐ、目の前の社長の悩みに対して直接的なアドバイスをすることはできない。
けれど頭の中には、これまでの営業の中で仕入れた、別の業界や会社の事例が山のようにある。だったら、『そういう事例をお伝えしたり、実際に同じような悩みを解決した方を繋ぐことで、目の前のお客さんの課題を解決できる』と思いました」
とはいえ、そんな杉浦の姿勢が、社内の反感を買ったこともあった。
「君は偉そうにお客に紹介したり提案したりしているけど、会社のリスクのことをちゃんと考えてるんか?もしそのことでお客さんの事業が失敗したら、どうするんや。大手企業のいちサラリーマンの君が、どう責任取るんや」
その時、杉浦はこう切り返した。
「そんなの、やってみないと分からない。でも僕は、お客さんの会社の課題解決にお役に立てると思うから、伝えている。失敗したときの責任?取りますよ。『会社を辞めろ』と言われるなら、その時は、潔く会社を辞めます」
会社員時代から肝がすわっていた杉浦。
彼の紹介によって、多くのお客が、ビジネスを成長させていった。
もちろん、お客のビジネスがうまくいき、業績が上がっても、杉浦には1円も入ってこない。それでも、彼のスタンスは何も変わらない。
なぜなら、「自分の利益のために、やっているわけではない」からだ。
杉浦「僕はよく、たらいの水理論を思い出します。たらいに入った水を、自分の方にばかりかいていたら、水は跳ね返って向こうに行ってしまう。でも水を相手の方に押し出したら、まわりまわって向こうから水が返ってくる。
人生も、同じだと思うんです。僕にとって、『水を前に出す』ということはつまり、『目の前の相手に、自分ができる限りのおせっかいをさせてもらうこと』。
皆さんからは、『いつも杉浦さんにばかりやってもらって…』と言ってもらいますが、最終的にそれは、大きな形で自分に返ってきている。独立してからもお客様に恵まれたり、毎年多くの方をご紹介いただいたりして、楽しい毎日を送らせてもらっているわけです。なんと有り難く、幸せなことか、と思います」
2019年、杉浦の56歳の誕生日に、女性経営者有志が誕生日イベントを企画してくれた
独立のきっかけは、意外なところからやってきた。
それは、2014年の6月、50歳の時のこと。
杉浦はある日、会社で倒れ、救急車で緊急搬送、そのまま20日ほどの入院を余儀なくされた。
当時の杉浦は、月曜日から金曜日まで、アポイントがぎっしりで、その上、夜は毎日会食、2次会、3次会も常だった。
結果や実績を作っていたことで、社内での杉浦の待遇は、例外中の例外。
「ノルマもなく、直行直帰もOK、君は好きに動いてくれればよい」
と上司から言われていた。
当然、社内では、それをよく思わない人たちもいた。
「あいつだけ、なんで特別扱いなんや」と。
三井住友海上で働いていた頃の杉浦
杉浦「自由にさせてもらえて有り難かった反面、あまりに好きにさせてもらっていたので、会社に居づらくなっていた頃でもありました。自分では平気だと思っていたけれど、心の奥底では無理していたのかもしれない。その上、毎日のように暴飲暴食で働き詰めで、とうとう倒れてしまいました。
そして、病院に運ばれて目が覚めた時、妻が側にいてくれて、私にこう言いました。『頼むから、もう仕事をやめてください。このままでは、あなたが死んでしまう』と。
そう言われて、肩の荷が降りた。そうか、僕はもう、会社をやめていいんだって」
杉浦の妻は、結婚以来、ずっと彼の支えとなってきた。
結婚したのは、25年前。杉浦が33歳、妻が23歳の時だった。ひたむきで、一生懸命な姿に、惹かれた。
杉浦「当時の僕は、今よりも30キロほど太っていて、おまけに若ハゲで。よく結婚してくれたなぁと思います。今では、すっかり尻に敷かれています(笑)
でも、あの時、『仕事をやめてください』と言ってもらって、本当に感謝しているんです。そのおかげで今、僕はこうして、楽しく生きることができているから」
会社員時代から仲良しの経営者たち、独立後ももちろん、関係性は変わらない
妻の言葉に背中を押された彼は、早速病室から、仲良しの経営者に電話して、事の次第を伝えた。すると、その経営者はこういった。
「杉浦さん、やめたらええねん。独立して、会社を作ったらいい。僕らみんな、応援するで!」
その後、何人かに電話をしたが、全員から同じ答えが返ってきた。
杉浦の心は固まった。
そして、彼は、51歳の誕生日を迎えた9月に会社を設立。年に1度の早期退職の募集に応募して受理され、12月末で退職した。
杉浦「最初は、株式会社布施という社名で会社を作りました。僕の地元である、東大阪の布施への感謝の気持を込めて。
初代社長は父親。父親も、とても喜んでくれました。その後、代表世話人に社名変更しました」
何を聞いても、杉浦の口からは感謝の気持ちが溢れだす。お客へ、これまで出会った人達へ、妻へ、地元へ、そして父親への感謝。そしてそれを彼は、必ず行動で示す。
「言葉の前に心あり、言葉の後に行動あり」
杉浦が大好きな言葉、それはまさに、彼自身を表しているのだ。
杉浦の周りは、いつも笑いが絶えない。
杉浦は人と人を繋ぎ、誠心誠意お世話をする。今、この瞬間も。
本を出版した大切な人に対して、杉浦の周りの経営者と共に、数百人規模の出版記念イベントを開いて盛り立てた。
創業したてのベンチャー企業に、全国区の経済新聞社の記者を紹介。記事が掲載されたことがスタートアップの大きな追い風となった。
いつも、想像を超える角度でやってくる杉浦のコーディネートに、お客は舌を巻く。中には、紹介から2,3年経った後に、大きく花開くものもある。まるでそのタイミングをわかっていたかのように。
それは、まさに、時空を超えたサプライズだ。
当の本人はというと、「人と人のご縁を繋げること」を、本当に楽しんでやっている。みんなの驚く顔を見るのが、何よりのご褒美なのだ。
杉浦「社会人をスタートした時、証券会社の当時の上司に言われたんです。『杉浦君は、旅行が好きなんやったら、営業も、仕事やと思わんと、旅行をしてると思ったらええねん。知らない街に行って、知らないお店に飛び込んで、知らない人と会って話す。それ、旅行と一緒やん』と。
『ホントだ!旅行をしながら、その上お給料をもらえるって、なんて最高なんだ』と、その時思いました。今でも僕は、仕事ではなく、旅行をしている感覚。
たとえ地元大阪にいても、旅行している気分。だから、毎日がとても楽しいんですよ」
いつも美女に囲まれている杉浦は、仲間の男性経営者からとても羨ましがられている。
杉浦のフェイスブックには、0歳児の赤ちゃんから、人生の大先輩まで、多くの人と会い続ける、楽しそうな写真が毎日掲載されている。この世の中に、杉浦以上に、こんなに多様な人たちと、毎日会い続けるビジネスマンがいるだろうか。
杉浦「僕が大切にしている言葉は『己を忘れて他人に尽くす』。以前、大僧正からいただいた言葉です。このことを大事に生きていたら、暇にはならない。どこかでお声がかかる。そういう気持ちでやらせていただいている。
...あと僕は、もう、『諦めて』いるんです」
終盤になり、杉浦から初めてマイナスな言葉が飛び出した。戸惑った我々は、その真意を尋ねてみた。
杉浦「『諦める』というと、マイナスな意味に捉えられることが多いですね。諦めることは良くない、と。でも『諦める』の語源は、『明らかになる』、なんです。
『明らかになって良かった。明らかになったから、次のステップに進めるね』という、実は大きなプラスの意味を持つ言葉なんですよ」
杉浦にできることは、人と人を繋ぐこと。
それをコツコツ積み重ねてきた結果、杉浦は今や、会いたくてもなかなか会えない、紹介の絶えない人気者となった。
ただし、どれだけ仕事の幅が広がっても、彼は一人会社を貫いている。なぜなら、社員を増やしたところで、決して誰も杉浦と同じことはできない、それを杉浦自身がよくわかっているからだ。
杉浦「僕は今スキンヘッドですが、髪の毛もそう、もう明らかになっているんです。はげているんだから、隠さずに、はげのままでいいやんって(笑)
諦めると、自然体になれる、楽になる。毎日無理をしないから、楽しい」
杉浦らしい、ユーモアにあふれた回答だ。
杉浦「僕は、すごい忘れっぽい人間。だから過去のことはあんまり覚えていません。
興味があるのは未来。
そして、自分が40歳になるあたりから『これからの時代は、若い人たちが作っていくのだから、自分より年下の経営者に積極的に会いに行こう』と思うようになりました。その決断が、良かった。
今は、20代、30代前半の一回り以上年の離れた若い経営者の皆さんとのご縁もたくさん頂くようになりました。そんな方々から『杉浦さん、今度お茶しましょう』と誘っていただく日々。有り難いことです。
もし僕が今後、そういう若い皆さんから、『杉浦さんはもう古臭くてあかん。話が通じない』と言われるようになったら、それはもう、僕に賞味期限がきたということ。
その時は僕が、ビジネスの世界から去るときだと思っています」
なんとも潔い考え方、杉浦らしい。
ご縁ある人達に、自分ができる限りのおせっかいを通じて、これからも進化を続けていくであろう杉浦氏。
彼の今後の動向から、ますます目が離せない。